世界と人生を彩るもの

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映画「ソロモンの偽証 後編・裁判」

2月13日の深夜1時15分からスカパーのBS日本映画専門chで放送されていたのを録画してみました。原作本を読んでからしばらく時間をおいて、ついこないだ前編「事件」を見たとき、「やっぱりこれはすごい作品だ!」と改めて思っていたので、後編がとても楽しみでした。

見終わってまずひとこと。これはすごい作品です。見て損なし。中学生のときの「思春期」を描く作品って多くあると思うのですが、このソロモンの偽証も一種の思春期を描いた作品かもしれないと思いました。恋した付き合ったとか、親への反抗、教師への反抗というのとも違って、そこは宮部みゆきならではというかミステリ要素を含めての「思春期」。

この映画を見ていると気づくのは、「親」や「教師」が中学生に対して、いつも正しいことを教えているわけではないということ。叱ったり抑圧するときも、なにかモラルに反することをしているとか、誤ったことをしているから叱るのではなく、大人にとって都合の悪いことをしているから押さえつける。わかりやすい暴力教師はまだともかく、そういうコントローラーな親って怖いなあとぞくぞくした。

また後編ではいよいよ学校裁判が始まるわけですが、これを見てると、ふだんの「裁判」がいかに「真実を明らかにするものではない」かがわかる。だからこそ涼子たちが、「学校」という場で裁判しようとしたことも。
結局彼女たちがやろうとした裁判というのは、容疑者がいて容疑があって、立証や反証をして、情状酌量してじゃあ無罪か有罪かってことではなかった。

この裁判で明らかにされるのは、誰も正しくないこと。また誰も悪くないこと。
みんな罪をもってること。ただその罪は隠したり、嘘をついたままだと償えないこと。
罪を償うために、そして許されるために、話す場所としてこの裁判があったこと。

というような描かれ方がとても良かったのですが、事件の真相はあっけない。いや、あっけなくてよいのです。ある意味「誰も悪くない」のだからそれでいいんですが、そのあっけない事件にどれだけの人が巻き込まれ、苦しみ、社会的にいろいろ失ったりしたのかと思うとモヤっとする。

「誰も悪くない」けど「誰も正しくない」ってのは、登場人物がみな、「あのときこうしてれば、、、」っていう心当たりがあったり、マスコミ報道に乗せられたり、ただ傍観するといった、事件に関してそれぞれがある種の罪をもっているってことなんだけれど、それを裁判で晒して自ら罰を受けようとするのはいいんだけど、事件の真相から見たときに、たしかにできることはあったし、やってれば変わってたかもしれないけど、でもしょうがないわって思う。まあ現実にもありますよね、「言うは易し、行うは難し」ってことが。そういうことでしょうか。

涼子が、松子と樹里がいじめられているところを助けなかったエピソードは原作にはなく、映画で追加されたとなにかで見ました。それからもわかる通り、この映画で描きたかったのは、このひとつの事件について、誰も他の誰かを裁くことはできないってことなのかなと。

大人になった藤野涼子(小野真千子)が教師としてこの中学校に赴任してきて、校長先生(余貴美子)にこの裁判の話をしているという展開なのですが、余貴美子のセリフでふむふむと思ったものがあったので抜粋(終盤です)。

「歳をとれば、たいていのことでは傷つかないし、自分をごまかすことだけは上手になっちゃうからね。」

「こころの声に蓋をすれば、自分の見たいものしか見えなくなるし、信じたいことしか信じられなくなる。そのことが、一番怖いことなんだなって。」

最後は私のひとりごと。自分が裁かれたくて裁判をした登場人物がいたけれど、他の人がそこまで到達できなかったらどう落とし前をつけるところだったのか。
あとは事件で死んだ少年が、いろいろとこじらせすぎていたよーな・・・もう少しふつうの少年でも良かった気がする。どうなんでしょう。

樹里役の子が、積水ハウスのCMにも出てるしこれから出てくる若手なのかな~と思って調べたら、まさかのE-GIRLSのメンバー(石井杏奈さん)でびっくりした。