続々読んでおります、山崎ナオコーラさんの本。
一気に4冊も借りてしまった。(買わなくてごめんなさい)(´□`。)
今回も良かったなぁ。
ちょっと気づいたのが、やっぱりナオコーラさんの本は、共感できる登場人物がいるのが良い。考え方とか、性格の悪さとか社会的地位とか。
だって、東京で働くステキなOLだけじゃないし、この世の中。
残業ばっかりで「夜中」に帰宅してるのに、手取り十何万円ていう人だっているし。正社員であることが、「すごいこと」な世の中だし。
ナオコーラさんの本の登場人物は、そういう意味でリアルだ。こういう友達いる!って感じがする。本当にいま東京で生きている人の生活を切り取ってきたような気がする。
さっき性格の悪さって書いたけど、忌むべき性格の悪さのことではなく、愛すべき性格の悪さってことです。人間完璧なはずないのに、性格なんて良いものだけでできているはずないのに、なんで性格が悪くちゃいけないんだろ?
というか性格の悪さというものは相対的に決まるわけで、愛してしまえば魅力に変わる。一般的には嫌われようが、そんな性格の悪さを持っている人が私は好き。
私の性格も大概悪いので、愛すべき性格の悪さは愛してくれる人としか、友達にも恋人にもなれない。
(といいつつ今なお努力してます。最近、願いごとがひとつだけ叶えてもらえるなら、「心を広くしてもらう」ことにしました。でも魔法使いは現れないと思うので、目下努力しておるのです)
本やドラマの中に、自分と似た行動をとる人物がいると面白いですよね、自分を客観的に見れるから。
この本ではエリちゃんでした。もちろん彼女に共感できるんだけど、それより、相手側から眺めてしまって。
ある男の子と「いい感じ」になっているのに、自分がいっぱいいっぱいで相手を思いやることができずにグチの大放出しちゃってるところなんて、あちゃー自分じゃんって。でもそんないっぱいいっぱいになっているエリちゃんのことを愛おしく思ってくれる人だっているはずなんです。大丈夫!
自分にもいうけど! 大丈夫!!
最近、お母さんと「他人について、分かったつもりになるのは絶対勘違い。そんなことは不可能」という話をしていたので、小説で以下の箇所が身に染みました。
相手の心を覗くことは、相手の心を予想することとは違う。ただひたすら注意深く、全身を耳にして耳を澄ますのだ。答えは出さない。相手の心がわかることはないから。ただ、自分たちが平均台の上にいるということを知っておく。理解は不可能で、誤解だけが可能。知らないということを深めたくて、心を覗くのだ。
(124p)
たしかに、物事ってクリアした瞬間にどうでもよくなりますよね。そういう意味では、まだまだわからないことがあって、もっと知りたい相手との付き合いしか発展していかないってことだなぁ。
わかった相手もこれ以上知りたくない相手もそこまでだもん。
ナオコーラさんの文章って、詩的で宇宙的で絵的でさりげないようでとても美しいのですが、最近の心境もこめて次の箇所。
船から溢れる泡は無軌道なようでいて、しかし科学の法則にのっとった動きでしかなく、それぞれの環境の中で決まった方向にしか飛ばないそれは、オレたちの人生に似ているように思えるのだった。
(130p)
法則とか運命とか、自分の存在を肯定するのか否定するのか、人生の意味とか、、、
そんなことを考えるきっかけになるのが文学の良さかな。